2015年01月25日

滑走路

毎年お盆に
妻の実家の宇佐市上乙女に
向かって走る車は
スピードを落とさないと
今にも飛び上がりそうになる

宇佐海軍航空隊・特別攻撃隊
昭和二十年四月六日・四月十二日・
四月十六日・四月二八日・
五月四日と五回もの出撃
八一機・一五四名もの
尊い命が木端微塵

千八百メートルも続く
真っ直ぐさは
飛行機乗りの心を
如何に操縦していたのだろうか
瀬戸内型の穏やかな気候に包まれて
神からも守られている此の土地に
およそ七十年前には
取り返すことの出来ない
やるせなさがあったとは

海軍の真っ白な制服が誇らしげだった
母の兄でさえ
米寿を迎えた席で言っていた
「長崎の原爆で亡くなった
長兄の骨らしきものを拾った時でさえ
涙が出なかった。
戦争は悲しみさえも凍らせる」と

掩体壕を左右に見ながら
滑走路を左に曲がって
一式陸上攻撃機の誘導路を
走り切ったほっとした心に
妻の実家が見えて来る


  


Posted by にぎにぎ at 21:10Comments(0)詩2015年1月~

2015年01月25日

石牟礼道子▽苦界浄土さまよう魂をどう救う

録画していた

NHK Eテレ
日本人は何をめざしてきたのか⑥
石牟礼道子▽苦界浄土さまよう魂をどう救う

を、観た。

漁師・緒方正人さんが言っていた。
「道子さんと最初逢った時、道子さんは「寒くない?お腹空いていない?」等と
温かい言葉を掛けてくれた。わしら水俣病の患者は、本なんか読まない者が多いから、
石牟礼さんの文学はわからない。実際逢った時の石牟礼さんの人柄が、
みんなを引き付けるんだ」などと。

テレビの中で、
「石牟礼さんが『苦海浄土』を書いたことで、
水俣病問題が単なる訴訟問題に終わらなかった」
とも言っていた人がいた。

僕がこれらの映像を観て心の声を聴いて、
特に印象に残ったのは、
大晦日から正月にかけても、
石牟礼さん達は東京駅そばの日本チッソの前で座り込みを続けた。
石牟礼さんは
「朝、目が覚めると、
猫が便をした後、その便の後始末をしようと、
コンクリートを前足で引っ掻いていた。
土の上をコンクリートが覆っているので、
必死にそうするしかなかったんですね。
都会は土地の呼吸を止めた。
都会のビルは卒塔婆の様だ」と、
嘆いていた。

石牟礼さんが、とても優しい所は、
人間だけではなくて、
人間以外の猫などの生き物や、
自然に対する無償の愛を注ぐところだ。